葛飾北斎の生涯と終焉の地浅草〜浅草はっけん<第5回>月刊浅草ウェブ             

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葛飾北斎は、江戸時代後期に活躍した浮世絵師。
現在の墨田区に生まれ、幼いころから絵を描く事が大好きで、生涯残した作品は数万点とも言われています。
墨田区にあるすみだ北斎美術館では、いつでも北斎の作品を楽しむ事ができます。北斎は、90年という長い人生を、最後まで絵に情熱を燃やし続けました。
90年に及ぶ生涯の中で隅田川界隈を中心に90回以上も引越しをしたと伝えられています。
あまり整理整頓が得意でなく、家の中は、いつも書き散らした紙や絵具、鉛筆で散らかっており、部屋が汚れる度に引越しをしていたようです。
北斎は、生涯において、何回も画号を変えています。
名を高めても、お金には無頓着で、いつもお金には困っており、画号を売っては、お金に換えて生活をしていたと言われています。


晩年75歳の時に名乗ったのは、「画狂老人卍」で没するまで愛着を持って用いた「卍」が最後の画号でした。
86歳の頃に信州小布施の高井鴻山の招きで、小布施に旅したとされています。信州小布施北斎館には、肉筆画を中心に、版画や錦絵などの作品が展示されています。
葛飾北斎は、終焉の地として浅草聖天町遍照院の境内に長屋があり、その長屋の一角に仮宅を設け、娘や門人、友人に看取られながら息を引き取りました。
北斎は、『あと10年、せめて5年生き永らえさせてくれたら真正の画工となり得たのに』と云う言葉を残したと伝えられています。
葛飾北斎のお墓は、元浅草の誓教寺というお寺にあります。
毎年4月18日の命日には北斎忌の法要が営まれ多くの人が訪れます。
葛飾北斎が描いた代表作「冨嶽三十六景」の中に、東都浅草本願寺があります。
当時江戸庶民を驚愕させた浅草御坊の巨大な屋根。雲をつくような火の見やぐら、空高くあがった凧、そして富士、これらをほぼ同じ高さにえがいた作品は北斎の奇抜な構図感覚を象徴するかのようです。

執筆者
澁谷 哲一(しぶや のりかず)
すみだ北斎美術館館長
<プロフィール>
東京東信用金庫特別顧問
墨田区文化振興財団理事長
すみだ北斎美術館館長
墨田区スポーツ協会会長

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