東洋興業会長(浅草フランス座演芸場東洋館)松倉久幸さんの浅草六区芸能伝<第42回>「関敬六(せき・けいろく)」
何だかんだ言っても、〈実力あるものが強い!〉
これは、浅草の名だたる商店も芸人も同じことで、動かしようのない事実です(笑)。
お客さんの反応は正直。モノが良ければ来る、美味しければ来る、面白ければ来る…結局は、この一言に尽きるのです。事実、こんな厳しいご時世でも、人気店は予約でいっぱい、魅力あるイベントは満席、人気役者の舞台チケットは完売続出…という状況ですものね。
浅草も、「楽しいから、また行く!」とシンプルに評価してもらえるよう、街全体の総合力を底上げしてゆきたいものです。
私がまだ若い頃、フランス座で連日小屋を沸かせていた実力者としてまず思い出すのは、何といっても渥美清。ストリップ劇場にもかかわらず、女の子より幕間の芝居見たさに通っていた客も多くいたくらいですから、その頃の面白さはやはり、格別でした。渥美一人に限らず、当時は奇跡的な実力者達の揃った、充実の時代だったとも言えます。
晩年は、プライベートの人付き合いを厭い、孤高の人のように語られることの多かった渥美ですが、フランス座で下積み時代を共にした仲間である関敬六、谷幹一との固い友情は、生涯に渡って続いていたようです。渥美の飛躍は、この二人との友情に支えられていたといっても過言ではないでしょう。
渥美本人のことは、この連載では幾度も取り上げいますし、写真特集の際には谷幹一の活躍を納めたショットを数多く紹介してきましたから、今回は、関敬六にスポットを当ててみたいと思います。
彼も、間違いなくこのフランス座から飛び立ったスターの一人。テレビの世界へ進出し、コメディアンから名バイプレイヤーへと躍進してからも、劇団での活躍等を通じて浅草に貢献し、気さくな人柄で親しまれた人でした。
今でも、あの人懐っこい丸顔で渥美や谷に「渥美やん!」「谷カン!」と呼びかける声が、聞こえてくるようです。
関敬六(本名:関谷敬二)は、昭和3年生まれ、栃木県足利市出身。終戦後、浅草税務署の職員として働いていましたが、芝居好きが高じて「エノケン劇団」に入り、その後、昭和28年にフランス座の専属役者となりました。
同い年の渥美清は3か月ほど遅れてうち入ってきたのですが、後輩にもかかわらず態度のデカい渥美に敬六は当初、だいぶ面食らったようです(笑)。しかし2人はすぐに意気投合、かつて渥美と浅草の別の劇場で同僚だった谷幹一も交え、3人はいつでも一緒という感じでした。
もっとも、渥美と谷カンは女性によくモテたのに対し、敬六は、その点はサッパリでしたけれど(笑)。
昭和20年代末といえば、キャバレーの全盛期。雀の涙ほどの劇場のギャラでは食っていけないと、芸人は皆キャバレーでのアトラクションを務め、せっせと生活費を稼いでいました。3人組も例にもれず、星の数ほどあるキャバレーから掛け持ちで仕事を取って来ては、”お前は先にあっちの店へ行ってろ、俺たちは、舞台が跳ねたらすぐ追いかけるから!”(笑)などと共同戦線を張って、互いに切磋琢磨し、芸も友情も育てていったのでしょう。
強く印象に残っているのは、渥美が重症の肺結核を患い、埼玉県の病院に入院した時のことです。
肺結核といえば、当時は死病の扱い。片肺を摘出する大手術を受けた渥美も一時は生死の境をさまよい、療養生活は足掛け3年近くにも及びました。
あの頃、一番足しげく見舞いに行っていたのは、敬六だったと思います。谷カンや、人気女優の玉川みどり(後に谷カンと結婚)、他にも代わるがわる仲間を誘っては、渥美が気落ちしないよう、元気づけていたのです。
フランス座のオープンが11時で、終演は夜の9時。その後はキャバレー(笑)。見舞いに行ける時間帯は早朝しかありません。仕事で疲れた身体に鞭打って、市街地から隔離された病院へ通い続けるのは、どんなに大変だったか。並大抵の事ではありません。
そんな厚い友情のお陰か、再起不能とまで囁かれていた渥美は、見事に舞台へ復活!あの時、敬六らの励ましがなければ、後年「寅さん」が誕生することもまた、なかったかも知れませんね。
約5年間の在籍ののち、敬六はフランス座を離れました。当時、多くの浅草芸人がそうであったように、彼もまた、テレビ界に活路を見出そうと、連日売り込みに精を出しましたが、なかなか思うような足掛かりは掴めません。
ところがある日、思ってもみないチャンスが舞い込みます。日本テレビのコント番組に穴が開き、急遽出演者を探していたプロデューサーから、声がかかったのです、しかも、当時ブームとなっていた「トリオ」、つまり三人組が欲しいというではありませんか。敬六の頭に、大親友の渥美、谷カンの顔が真っ先に浮かんだのは、言うまでもありません!2人もこの申し出を快諾し、誕生したのが〈スリーポケッツ〉です。
スリーポケッツは人気を得ましたが、方向性の違いに悩んだ渥美が、わずか3ヵ月で脱退。この時ばかりは石板の友情にもひびが入りかけましたが、それも敬六の計らいで丸く収まり、危機を乗り越えてより強くなった絆は、生涯に渡って続いたのです。
そして、トリオは長続きしなかったものの、これが3人の転機になったことは間違いありません。少しずつ単独の仕事が増え、やがて各自の個性にあった方向で、それぞれ見事に花開きました。
車寅次郎として国民的大スターになってからの渥美は、友達を寄せ付けなくなったと言われていますが、それは誤解です。確かに、一番親しくしていた敬六でさえ、自宅まで車で送っても家に上がったことは一度もないそうですが、それは家族を世間の目から守るためにも、自身を保つためにも絶対必要なことであり、敬六はその事を、友人として、また同業者として、誰よりも理解していたのです。
敬六は、「男はつらいよ」シリーズにも数多く出演しており、特に26作目からは、全ての作品に顔を出しています。自分の出番が終わっても、長期ロケに同行することが多かったのは、いかつい顔に似合わず(笑)繊細なところがあり、寂しがり屋の渥美のコンディションが安定するようにとの山田洋次監督の計らいであったともいいます。2人の固い友情は、きっと監督にも伝わっていたのでしょうね。
映像の世界でもなくてはならない存在感を発揮するまでになった敬六のもう1つの悲願は、自身の劇団を立ち上げる事でした。その夢も見事に叶え、「関敬六劇団」の座長として座員を率いる彼の傍らには、時には 「いよっ、座長!」と舞台を盛り上げ、また時にはお忍びで客席から静かに見守る渥美の姿があり、それは晩年まで変わらなかったといいます。
「男はつらいよ」のロケ先で、一緒に位牌まで作った(!)程、固い絆で結ばれていた2人。その友情がフランス座から始まったのだと思うと、とても感慨深いものがあります。
片や、日本映画史上に名を残した国民的名優、片や生涯を通じ浅草の舞台に貢献し続けた、生粋の浅草芸人。
2人の足跡ならぬ〝手形〟は、今では浅草公会堂前にあるスターの広場に、仲良く眠っています。
お立ち寄りの際には、それぞれの手形を探し、在りし日の彼らの友情と功績に想いを馳せていただけましたら、大変嬉しく思います。
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