【本国劇もう一度】
三宅坂の国立大劇場は新派公演、新釈と銘打った金色夜叉である。
その楽屋で伊井義太郎さんが珍らしい舞台写真を見せてくれた。
「清水次郎長裸道中」の初演のもの。伊井の次郎長、梅島曻の森の石松、大矢市次郎の大政、藤井六輔の小政の4人が裸道中の姿で並んでいる。当然だが、二枚目の梅島も大矢もまだ若い。
昭和6年3月の宮戸座にこの「裸道中」が出た時は蓉峰の次郎長に白河青峰が石松、中田舜堂が大政で小政は藤井だった。早川の佐太郎は大谷友三郎で宮村松江の女房お光。
「この芝居は面白いので受けました」と伊井さんは回想する。
その藤井六輔は本国劇一行が旅興行に出ていた8月に東京で病没と聞かされ、筆者は万太郎に藤井六輔重患と云う前書で〝胸に手を組みて眠れる浴衣かな〟の句があるのを思い出した。日本橋亀井町の魚屋に生れ、伊井門で1番の人気者。小栖な身体も彼の場合は愛嬌となった。
舞台写真の1枚に伊井蓉峰の婦系図の主税があった。湯島の境内のそれである。この場の巾着切り万吉は藤井六輔の当り役の1つと義太郎さんは言う。
伊井義太郎さんは、当時の芸名は大谷武重で、楽屋内ではブジュー。
そのブジューさんは四国の伊予大洲の生れ。お花はんと同じふるさとである。自分の家が祇園座と言う芝居小屋だったので幼少からいろいろの芝居を見た。松之助の映画にも打込んでの映画スターを夢みて上京、俳優養成所に通うことになる。16オだった。月謝3円、下宿代3円での養成所通いの中に、女の先生に誘われて浅草の金竜館の楽屋に連れて行かれる。そこが大谷友三郎の部屋だった。
「芝居は実際の経験が大事だから学校なんぞやめて、明日から私のところへ来給え」
と言はれたのが縁で友三郎の門に入ることになってしまう。大谷ブジューの誕生である。
「昭和2年でしたから以来45年間の師匠でした」
ブジューさんはしづかに語った。師友三郎亡き跡を伊井を名乗ったことも当然と言えよう。
筆者は先年国立大劇場の新派公演の「にごりえ」で、源七に無理心中をさせられたおりき(玉三郎役)の初七日の場面で焼香にくる源七の知人の役で杉村春子の抱え主とやりとりするところの伊井さんが印象に残っている。
先月末、国立小劇場で英太郎さんの会で、鏡花原作の「折鶴おせん」に伊井さんはおせんを買いに毎晩来る老人をしていた。これも、「にごりえ」の場合と同じようにその時代の人物らしい実在感をよく出して舞台をひきしめていた。私は急速に義太郎さんのファンになってしまった。春本泰男、成田菊雄、加納英二郎、英太郎さんと倶に新派の大切なワキ役の一人として新派の芸を若い人達にしかと手渡して貰いたいと思う。
宮戸座(みやとざ)の本国劇4月公演では、長谷川伸の「瞼の母」が出ている。二代目座主の山川金之助さんが先々代の勘弥が明治座で上演中の「瞼の母」を見物して舞台装置をまねたことを伊井さんに話すと、
「私も師匠の友三郎と2、3度見にゆきました。小平多賀之亟さんの水熊のおはまもなかなかよかったですね」
山川さんは、
「勘弥のはおふくろとのやりとりで泣くのが長過ぎる。新国劇の島田正吾は少し泣きが短かく、本国劇
の友三郎のが丁度よいくらいに当時思いましたね」
と、先日お宅で聞いていた。
「師匠だから言う訳ではありませんが、友三郎の忠太郎はなかなか味がありました。「裸道中」の佐太郎も男前だし、人気もありまして、お客は喜んでくれました」
と伊井さんは懐しげだ。
3月興行の川村花菱演出「新釈忠臣蔵」は桃井邸玄関から一カ茶屋迄之場で浄瑠璃「道行旅路花聟」清元連中、そして後半を大石良雄と毛利小平太と珍しく且大胆な上演形式、宮戸座には座付きの歌舞伎俳優もいるので変則的な面白さであり、その故に楽屋は満員。
道行の勘平は竹三郎、おかるは松燕。塩谷邸切腹の場は、竹三郎の由良之助、松燕の判官に鶴之亟(現市川福之助)が力弥。
大石良雄はもちろん本国劇の御ん大伊井蓉峰、太は友三郎。