「ヨソ者とはいえ、戦前からずうっと浅草底辺部に生きてきて、277票とはナサケない。それも野坂さんとか永さんとかの人気者に応援してもらったのに、この程度ではまったく面目ない。と、舞台に上った高揚感醒めやらず、役者の素質のなさにも気づかずに、機会があればまたチャレンジしたい気持になっていた。これがそもそも本来裏方向きの自身を見失った〝選挙病〟の始まりだった。」
と、悔悟している。
薬局の御主人で漫画家、二足の草鞋を履く友人の原えつおさんが、ちょうどいゝタイミングに、生涯学習センターの郷土資料室から、『選挙・三十五年のあゆみ』(台東区選挙管理委員会)を探し出して下さった。
これには各回毎の得票数が載っているので、願ってもない資料、ありがたく利用させていただくことにした。
吉村先生は、台東区議会議員に無所属で4回、立候補している。
第1回:昭和46年4月11日、候補者53人中最下位で、得票数277票。
第2回:昭和49年9月29日、補欠選挙に立候補、候補者21人中19位で、得票数12,10票。
第3回:昭和50年4月27日、候補者49人中44位で、1,095票。
第4回:昭和54年4月22日、候補者48人中46位で、789票。
駄目押しの惨敗である。
吉村先生の選挙病に付き合い、奮闘した歴代の選挙事務長は、以下の通りである。
第一回:「かいば屋」の主人、熊谷幸吉さん。
第二回:根岸在住の劇作家、石崎一正さん。
第三回:浅草軽演劇文芸部の成田弁念さん。
第四回:居酒屋「番所」のマスター山田昇さん。
選挙中の挿話で、私の大好きな話が、二つほどある。
「最後の立候補のとき『また、やります』と野坂さんに報告に行くと、さすがウンザリしたような顔で「そうですか、吉村さんもいよいよ台東区の赤尾サンというところですな」と苦笑していた。赤尾敏さんは、国政選挙には毎回必ず立候補し、第一声はスキヤ橋公園と決まっていた。落ちても落ちても、選挙の顔であった。懐かしい名である。
「選挙戦中に、地元支持者の一人がそっとわたしに囁いた。『アンタ、町会費も払ってないというウワサが流れているけど、そりゃアマズイよ』、噂は本当だったから、どうしようもなかった。」これなどは、まさにブラックユ
ーモアである。
万歳三唱が何より好きだった吉村先生だったが、選挙ではとうとう一度も果せなかった。
今村恒美先生から贈られた⽛祈・必勝⽜の⽛だるま⽜の色紙(写真参照)も、片目のままで遺されている。
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