秋の落ち葉か。
勢いよく最後の旅路を土とともに朽ちてゆく。末期の恐れをかくして、あくまでも品よく、無雑作に散ってゆく……。エドモン・ロスタン原作『シラノ・ド・ベルジュラック』より楠山正雄訳、額田六福翻案の戯曲「白野弁十郎」の大詰「尼寺の場」。「詩人、剣客、音楽師、数の知れない立ち合いに舌にも風邪をひかせぬ男、会津朱雀隊士、白野弁十郎」と名乗るとおり、文武両道にすぐれた熱血漢だが、人並み外れた大きな鼻の持ち主。舌鋒の鋭さゆえに敵をつくり、ついに暴漢の襲撃を受けた白野が重傷と長年寄せる思いを隠し、銀杏の落葉舞う尼寺に千種姫を訪ねる場面だ。新国劇の創始者、澤田正二郎の初演は大正十五年。後に島田正吾が生涯演じ続けた。「秋の落ち葉か……。このセリフ回しがいいんだよ。島田正吾という人には、独特なリリシズム(抒情詩的な趣、味わい)がある」と、声色をまじえて語っていたのは外科医で病院長の先生。場所はかつて、浅草公園通りにあった「沢正」のカウンターである。店名はもちろん澤田正二郎にちなんだもので、月刊「浅草」に〝新国劇ファンの酒処〟と広告が掲載されていたのをご記憶の方がおられるかもしれない。
院長先生はその大常連で、昭和10年以来の新国劇、島田ファン。劇団が解散した同62年以降も笠原章以下、座員が旗揚げした劇団若獅子の後援活動に尽力された。演芸好きでもあり、土曜の夜など「東洋劇場(東洋館の旧称)へ行ってきたよ」と顔を出されることもあった。そんな先生らしく、ニックネームをつけるのがお得意で同じ常連の社長さんは「チロリン村の村長」、当時最年長の新国劇ファンの大先輩(96歳まで舞台を勤めた島田御大に匹敵する御長命だった)を「グンちゃん」と呼んでいた。グンの由来は、御両人とも故人となられた今は確認できないが、座員で名優の一人、郡司良に面差しが似ていたからではないかとも想像している。
そして忘れてはいけない沢正のご主人、やはり筋金入りのファンだった平野泰之さんにも「ラグノオのおやじ」という愛称がつけられていた。ラグノオは「シラノ」でガスコン青年隊の面々が集う店の主人で、「白野」では雷蔵となる。⽥沢正⽦を血気盛んな隊士たちが愛した店になぞらえた、先生らしい命名だった。芝居の話で盛り上がる夜はさらに楽しく、平野さんも心から喜んでくださった。
新国劇といえば「国定忠治」「月形半平太」、また「瞼の母」「一本刀土俵入り」をはじめ長谷川伸の諸作が有名だ。しかし「数々の素晴らしい現代劇がある。だからこそ、時代劇がいっそう輝くんだね」と、院長先生は語っていた。確かに「人生劇場」「無法一代」、北條秀司作品で辰巳柳太郎主演の「王将⽞」だんじり囃子⽞、山村の駅に流浪の酌婦がやって来る「山鳩」など名作が多く、北條作品では植物学者の純愛を描く島田主演「霧の音」も忘れ難い。そこには男の劇団と言われる歴史のなかで育んだ、まさに「白野」に代表されるリリシズムが流れていた。
新国劇公演としての「白野」は、東京では昭和48年9月の新橋演舞場がラストだったと思う。大詰で白野襲撃の報を知らない尼僧が光本幸子演じる千種に来訪を告げ、寺の塀に島田御大の影が映る……。それから幕切れまでは、客席でずっと泣いていた。もちろん、その舞台も観ていた院長先生はじめ先輩ファンから浅草で教えていただいたことが、自分の貴重な財産となっている。
白野は劇団解散後も島田正吾、緒形拳の一人芝居、さらに現在若獅子会の笠原章によって受け継がれている。笠原さんは初演(劇団若獅子公演)で前進座の河原崎国太郎の千種と共演。そして※本年12月2日から6日まで、瀬戸摩純を迎えて両国シアターX(カイ)で「白野弁十郎」が上演される。光本幸子と同じ新派で実績を上げている瀬戸さんとは、すでに共演経験もある。初冬へ向かう道すがら、銀杏の落葉を見るにつけて舞台への期待が高まる。
(写真/文:袴田京二)
写真提供/若獅子会※2020年12月にシアターXで絶賛上演されました。
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