粋人とか、人生の達人、遊び上手、食通などの枠をはるかに超えた、しごく透明な存在でいらっしゃる。そして、まれびとたる吉村さんの今日を支えているのは、エロ事師の草分けとして、色にまつわる修羅の巷、我鬼道に身を置き、そこで生きていた苛烈な日々の体験であろう。吉村さんは、今も、旧吉原遊廓の中に、部屋を借り、極上のお茶をすすり、手焼きの煎餅ぽりぽりとかじりつゝ、ほろびていく遊び、雅びやかな伝統を、なげくのでも、いきどおるでもない、流れに浮かぶうたかたこそ人の営み、ただじっとながめていらっしゃるのだ。戦後15年、ようやく吉村さんは、昔の修羅、餓鬼道の一端を、整理なさる気持ちになった、本書は、ある時代の生きた証言である。
こんな帯を書いてもらえる吉村先生の胸の内は、如何ばかりであっただろうか。
私は昭和50年頃、吉原大門の交又点近くに住んでいたことがある。その頃でも吉原先生を存知あげてはいたが、別世界の人という印象が強く、近くに住んでいながら話をする機会もなかった。その頃、たまに独りで飲む時は、国際通りの「鮒金」さんの並び、吉原千代さんの店「朱実」と決めていた。まったく知らない店に飛び込むはずはないから、始めは誰かと一緒だ ったと思うのだが、その辺のところは記憶にない。この朱実で吉村先生とお近付きになったのである。吉村先生はいつもカウンターの隅に座っていて、ポツリポツリと語るその話が、聞き漏らせないほど貴重に思え、いつの間にか吉村先生お目当ての朱実通いと変っていった。朱実には他の店にはない献立「麦とろ」があって、小腹が空いた最後の締めに、これを注文するのが常連さんのコースとなっていた。この献立は、かつて上野広小路の天神下通りにあった「麦登呂」で、素焼きの飯茶碗に一杯ずつ軽く盛っては食べさせていたメニューを、吉村先生がそのまま朱実の売り物にしてしまったそうである。吉原千代さんといえば『吉村平吉晩歳の会』で、婚約発表をした当のお相手である。私は吉村先生の本丸に入り込んでしまったようである。
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