若き日の吉村平吉先生が、浅草六区にのめり込んでいった頃のことは、あまり多くは語っていないが、私はこの時代が、先生の原点だと思っているので、興味もあり、一番知りたいところである。
『吉原酔狂ぐらし』(三一書房)の「プロローグ・赤坂一ツ木から浅草へ」に、「エノケンのレビューは、世の中にこんな面白いものがあったのか……と感激したくらい少年のわたしを興奮させた。最初のうちは、半月に一度か二度程度だったのが、やがて週に一、二回から一日置きに、ついには学校から帰ると毎日のように、浅草へ通いつめることとなった。」
「旧制中学を卒業する頃のわたしは、もういっぱしのレビュー青年になっていて、生意気にもレビュー台本らしきものを書き、それをもって松竹座楽屋の文芸部へ、菊谷先生を訪ねている。」
「そのレビューの脚本が、どうゆうふうに評価されたのかわからないが、一座のプロジュ ーサー格のマネジャーだった佐藤文雄氏から、いつでも文芸部へ遊びにきていゝと、いわば文芸部出入り自由のお許しが出た。わたしは天にも昇る気持ちになって、それからは毎日のように浅草へ通った。」とあり、「当時全盛期のエノケン一座の文芸部見習として出入りしだしたのが、昭和11年(1936年)、旧制中学校を卒業する前後だった。」と回顧している。
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