「小さな贈り物」心と表現<第30回>熊澤南水|月刊浅草ウェブ

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • Pocket
  • LINEで送る

新しい年を迎える度に、何かしら立てている今年の目標だったが、その気持に変化が起きた。
未曾有の体験だった新型コロナウイルスとの戦い、緊急事態宣言下での自粛生活、2年余の年月での体験は、80生きてきた中で、様々な事を気付かされてくれた時間だった。

大正12年の関東大震災を体験した人は、さすがに少なくなっていると思うが、昭和16年勃発の太平洋戟争、20年に敗戦と云う形で終わりを遂げ、その後の困窮生活をくぐり抜けてきたのが正に私達世代。しかし、その後、勤勉な日本人の本領を発揮し、先進国と肩を並べられるまでに発展してきたのである。文明の機器に囲まれ、今や世界中の人々と繋がる事も出来る。

勘違いをした、誰かが雷った。
〝人類は、地球を制覇した!〟と。
そんな傲慢無礼な地球人に、天が下した警鐘だったのだろうか。新型コロナウイルスが蔓延していったのである。そして、終息の兆しが見えるまで、2年の月日を要した事になる。人の欲には際限が無い。
ここらで立ち止まって、足許を見つめ直し己の生き方を正す時が、来ているのではないだろうか。そんな気がしてならない。

振り返ってみれば、昨年6往復もした事になる沖縄への旅だったが、その最後は11月25日からの5泊6日、当初の予定に無かった行程である。那覇市青少年健全育成市長会議、創立40周年記念式典に招待され、しかも、功労表彰されると云うのである。
2ケ月程前に角封筒での案内が届き、少し考えた末に参加の返信をしたのは、会長のOさんに日頃大変お世話になっている為でもあった。不参加の理由を探すのは簡単である。しかし、ここぞと云う時に力になってこそ、気持の交流が出来る訳で、遠方にも関わらず足を運んでくれたと云う事が、式典を盛り上げる要因になるかも知れない。参加の文字に○を付けて投函するまでには、然程の時間を必要とはしなかった。

11月27日(土)
式典当日、私は人形師ホリヒロシさんデザインの着物で会場に向かった。鬼しぼちりめん地に藤紫のぼかし染め、裾に雪月花の文字を散らした5つ紋、帯は大正期のアンティークで四季の草花を日本刺繍で描いた豪華な逸品、式典に礼を尽くした装いである。
昭和56年7月に給成されたと云う市民会議、那覇市の青少年健全育成施策と呼応して、関係機関と連携を取りながら、市民協働で次世代を担う青少年の健全育成を図ることを目的に、活動している団体の今日は40周年式典、会場はパシフィックホテル「万座の間」、本来なら600名のお客様をお迎えする事が出来る会場に、沖縄はまだこの時半分に制限されており、間隔を空けられた椅子には既に沢山の関係者が座って待っておられた。因みに同じこの部屋で12月には由美かおるのディナーショーが開催されるとのポスターが、あちこちに貼ってあり、その時は満席になるのだろうか、など頭を横切らせながら、控室で待っていた私達にも声が掛かり、最前列の自席に着いたのである。

市民議会の主な活動は、①那覇市少年の主張大会、②那覇市少年自然体験の船、③青少年健全綱引き大会、④中学校区青少協の活動支援等が大きな柱であるが、私と会長のOさんとの交流が進む中で、新春朗読会がそれに加わったのである。

沖縄に通い始めて30年、各地で語りの会が催されるようになり、聴いて下さった方々がロを揃えて、〝是非、子供達にも……″と学校側と交渉し、本島はもとより、石垣、宮古、伊良部と、離島の小・中・高へも足を延ばして来たのである。Oさんとのご緑は、彼女がパーソナリティーを務めるFMレキオの番組に、ゲスト出演させて頂いて以来15年程になるが、市民会議の趣旨に添った活動として、新春朗読会を取り入れて下さり、毎年那覇市内何処かの小、中学校で、私にその機会を与えて下さったのだ。人の縁と云うのは面白いもので、一回こっきりで終る人もあれば、百年の知己に発展する事もある。結んで下さった神に感謝を忘れず、出違わせて下さった意味を理解し、学ばせて頂くと云う姿勢を保ちながら、謙虚に向き合う。
これが約80年生きて来た私の処世術である。

定刻通り式典は開会。主催者あいさつ、来賓祝辞となり、城間幹子那覇市長が中央に進んだ。平成26年11月女性初の那覇市長となり、30年に再選されて現在2期目を務めている。控室で名刺交換をさせて頂き、〝初めまして〟と、ご挨拶すると、〝あら!初めてじゃないわよ、私が務めていた中学校に、以前いらして下さったわ〟と、笑顔で仰っしゃり恐縮したのも束の間、〝実は、私、市川に住んで居た事もあるのよ〟には二度びっくり。その時は周囲に大勢の人もおり、詳しい話は出来なかったが、資料によると宮城教育大学卒業後、市川市立第4中学校に勤務していた経歴が記されていて、並々ならぬ緑を感じたのである。その後は故郷の沖縄に戻り、教育の現場一筋で研鑽を積まれ、現在は那覇市の顔として多忙を極めている。
「私は、城問先生に憧れて、国語の教師になったんですよ」沖縄県立南部農林高校で、国語の教師をしている後輩が洩らしたひと言。その人の存在が一人の人間の生きる道を決める、影響を与えられる。それこそが人が生きて来た証では無いだろうか。

表彰状、感謝状贈呈が粛粛と進み、受賞者を代表して、不肖私が感謝のことばを述べたのは、式典も終わりに近づいた頃だった。先ずは、ひとりひとりの小さな活動に目を止めて下さり、陽の当る明るい場所に引き上げて下さった、市民会議の関係者の皆様に、厚く御礼申し上げます、と、壇上の会長、副会長に一礼、続いて30年間で廻った学校でのエピソードを挿みながら、子供達と別れる際必ず伝えている私からのメッセージを、会場の皆さまにもお伝えして、お礼のことばに変えさせて頂いたのである。

〝ひとつのことばに励まされ、ひとつのことばで傷ついた。
ことばは魔物!使い方ひとつで、毒にもなれば薬にもなる〞

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • Pocket
  • LINEで送る

公式月刊浅草ウェブ|メールマガジン登録

【登録時間わずか1分】

公式月刊浅草ウェブでは、浅草の文化芸能を知りたい方へ毎月1回メールマガジンを配信させて頂きます。

ご興味ある方はぜひご登録よろしくお願いします!

※記入項目は3項目(メールアドレス・お住まい・ご興味持った理由)

※クリックしますとGoogle Formへジャンプします。

個人情報の取り扱い・プライバシーポリシーをご確認下さい。


メールマガジンご登録はこちらです