史上最多、92の国と地域から2925名が参加し、熱戦を繰り広げた第23回冬季オリンピックが閉幕した。
極寒の韓国平昌での大会は、2月9日に開幕15の競技、102の種目で連日盛り上がり、感動的なシーンの数々に心を揺さ振られたものである。
中でもフィギュアスケートの羽生結弦選手への期待は大きく、見事金メダルを手にした時は、思わず拍手を送ってしまった。恐らく日本中の女性が、彼の母親の心境であっただろうと想像する。大きな怪我を乗り越え、背負い切れない程の期待に、押し潰されそうな心と戦いながら、リンクに立ったのであろう。フリーの演技を無事終え、思わず取ったガッツポーズの裏に、身を削り血の滲む努力の日々を垣間見た気がした。
カーリングの魅力も、新しい発見だった。
競技時間が長く、なかなかゆっくり観戦する事は出来なかったが、次第にハマッていく自分に気付かされた。何よりも日本チームのコミュニケーション能力の高さには脱帽した。そして、楽し気にプレーしている。「そだね」と云う言葉が話題になっているが、先ずは〈添って〉見る。基本なのかも知れない。
日本は、これも史上最多11個のメダルを獲得し、25日に無事閉幕した。
オリンピックロス、と云うことばが飛び交っていたある日、珍しい人から電話が入った。〝南水さん、久しぶりやねぇ、元気にしとる?〟。喜劇界の長老、大村崑さんの特徴のあるお声が響いた。〝お蔭様で。先生のご活躍はいつも嬉しく思っています〟。
最近では、旭日小授賞の受賞など、押しも押されもせぬ喜劇界の重鎮、86歳の現在も尚矍鑠として、大きな存在感を示している。大河ドラマ「西郷どん」のお祖父ちゃん役は記憶に新しく、20年以上も続いている「赤い霊柩車」での、一級葬祭ディレクター秋山さんは、最早一身因体と言っても過言では無い。
「ゆうもあ倶楽部」が誕生したのは、戦後の混乱からようやく立ちあがり始めた昭和29年、日常の生活にもっとゆうもあを……と、徳川夢声氏の発案によるものであった。その「ゆうもあ倶楽部」の現理事長が大村崑さんである。毎年恒例となっている年末の「ゆうもあ大賞」受賞式には、各界の著名人が大勢集い、都内のホテルで賑やかに開催され、私も何度かお邪魔した事がある。因みに昨年の受賞者は、棋士の加藤一二三、落語家林家たい平、大衆演劇の梅沢富美男の三氏が栄冠を手にしている。
崑さんとの出合いは今から15年程前になる。仙台を拠点に、広く日本舞踊の家元として活躍しておいでのH先生から、自身のリサイタルにゲストとして参加して貰えないだろうか、と云う依頼を受け出向いた秋田市文化会館での舞台であった。同じく特別ゲストとして、大阪から参加しておられたのが崑先生。初対面のご挨拶をさせて頂き、楽屋でのお姿を垣間見ながら、そのお人柄に魅せられたのが、昨日のように甦える。驕らず偉ぶらず、誰にでも平等に接しながら、楽屋に山と積まれた色紙に、丁寧にサインをなさる姿は、今でも目蓋に焼き付いている。
リサイタルの中盤、休憩後の幕開きが私の語り、締めくくるのが家元と崑さんの舞踊劇「松井須磨子物語」であった。既に、島村抱月の扮装で舞台袖に控えていらした崑さんは、私の語る「糸車」にじっと耳を傾けて下さっていたのである。
「南水さん!素晴しかったよ。あんたの芸はこれから増々必要とされる。頑張ってな」
温かいお言葉を掛けて下さり、ご自分は瞬時に島村抱月のお顔になられたのである。それから事ある毎にご連絡を戴き、即かず離れずの交流が続いている。冒頭のお電話も、久しぶりに「ゆうもあ倶楽部」会員有志と、一日バス旅行を計画したから、あんたも参加せえへんか……と云うものであった。〝喜んで……〟、とお返事して、事務局から届く詳細を待った。
そして3月6日(火)、友人を誘い楽しいおしゃべりをしながら、朝⚘時に新宿駅前を出発する大型観光バスに乗り込んだのである。
行き先は小田原方面、曽我の梅林を観て、某料亭で昼食、最後に蒲鉾の老舗「鈴廣」で、手づくり蒲鉾に挑戦と云うシンプルなものであった。旅の醍醐味は、〝何処〟へ行くか……でもなく、〝何を〟食べるか……でもない。〝誰と〟行くか、だと私は常々思っている。
ここ数年、お会いする機会が無く、久々の再会を喜びながら朝の挨拶をする私に開口一番、〝何年も逢うてへんかったけど、あんたちょっとも老けてへんな、前より若返ったんちゃうか〟、と社交辞令も忘れない。
雨と風で荒れた前日が嘘のように、晴れ男を自称する崑さんの挨拶に、車内の緊張が一気に和み、会員同志の賑やかな会話が弾んでいる。前日まで梅まつりが開催され、30万人以上が訪れたと云う曽我梅林も、この日は貸し切り状態、花を散らさずに待っていてくれた、紅白のしだれ梅に先ず感謝!、馥郁たる香りの漂う中を、ゆっくり散策する事が出来たのである。
名店と誉れ高い料亭の奥座敷で昼食の後、この日のメイン蒲鉾作りが体験出来ると云う「鈴廣本店」へ移動。簡単な説明を伺った後、キャップとエプロンで身を覆い、一斉に作業にとり掛かる。しかし、見るのとやるのとでは大違い、目の前に置かれたすり身は意外に重く、包丁型のへらで延ばしながら空気を抜くのだが容易ではない。更に板に載せて形を整えるのは至難の技である。やはり、餅は餅屋の喩えの如く、プロの手技を堪能する方が間違いなし、と納得して別棟のショップへ急ぐ。お土産を買い込んで、予定通り5時には小田原を後にバスは出発。ビンゴゲームでひとしきり盛り上がって、最後のご挨拶を、と崑さんがマイクを握ったのである。途中の進行役はほとんど事務局長のSさんに任せ、ご自身は全くお話をなさらなかったのが、私には少し意外に思っていた矢先の事、何んと私の事を他の会員さんに改めて紹介して下さったのである。「折角やから、皆さんに何か聞いてもろたら?」。突然振られて、一瞬エッ!と戸惑ったものの、ここはチャンスと受け止め「糸車」の冒頭を2分程語った。
〝あら!、その先がもっと聞きたいわ〟
興味を持って下さる方々のお声に励まされ、そして、何よりも崑さんの温かい心使いに感謝しながら、夜の新宿を後に帰路に着いたのである。
「祭典のあと」心と表現<第27回>熊澤南水|月刊浅草ウェブ
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