「お吟さま・始末記」心と表現<第11回>熊澤南水|月刊浅草ウェブ

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演出家の中に、やっとイメージが掴めた瞬間だった。ほんの入口に差し掛かった時期ではあったが、私の方は数千通に及ぶDMの準備に取り掛からねばならない。宛名シールと切手を貼り、チラシの完成を待って一斉に投函したのが、お盆休みも明けた8月19日、祈るような想いでFAXでの返信を待ったのである。
そして10日余り、順調にお申込みが入って14日の分はほゞ完売、何よりも心配な集客の一件は、明るい見通しとなっていった。
季節は夏から秋へと移り、京都、北海道、米沢と旅公演が続いたが、台本は手離せず後編の暗記に集中していったのである。
自宅でも毎日声に出して練習を重ね、テープも摩り切れる程聴いて体に覚え込ませるのだが、動きが加わると折角覚えたセリフも見事に飛び、振り出しに戻ってしまう。自然な流れの中で口から出るようになるには時間が掛かる。
開演に向けての準備は全て整っているのに、一番大事な暗記の部分に不安が色濃く残っていた。
新作に挑戦し、しかも初演と云うプレッシャーは、何とも致し方無い。ならば……逆にこれを楽しもう!
追い詰めて、追い込んで、持てる力全てを出し切ろう!、私さえ失敗しなければ、この舞台は評判を呼ぶだろう。その自信は秘かにあった。10月に入っても、秋らしい日は一日も無く雨の連続だったが、どうやら公演日の週は、天気も落着く模様との予報に胸を撫で下ろし、最終稽古に向ったのである。
そして迎えた当日、思いの外心は落ち着いていた。最早(もはや)〝俎板の上の鯉〟の心境である。あれこれ心配したところで、今更どうにもならない。運を天に……と云うよりは、自分を信じて精いっぱいぶつかって見よう。腹は決まっていた。
午前9時、開館と同時にスタッフは、それぞれの持ち場で仕込みに入る。正に戦場である。一部二部とセットの転換もあり、小道具類も今回はかなり複雑で、馴れないスタッフには扱いも難しい。観客の中にはその道のプロもおいでになるので、いい加減は許されないのである。
午後3時過ぎから始まったゲネプロでは、照明、音響、そして私の動きを合わせるのが精いっぱいだった。初日は、毎度の事なのだがこのゲネプロと本番、二公演語るのと同じエネルギーを使う。この歳になるとこれはかなりきつい。
平日の、それも夜公演にも関わらず、8割の入りは上出来と言わねばなるまい。3.11以降夜の外出を控える人が多く、加えて高齢化の波で、何処の劇場も頭を抱えているのが現状である。
お客様が求めて下さった、チケット一枚一枚のお蔭で、私はこの舞台に立てるのである。
その事は、決して忘れまい。
緞帳の降りている舞台の上で、私は客席に向って深々と頭を下げた。ヴェルディの歌劇「椿姫」、第三幕間奏曲が静かに流れ、幕が上がった。
お吟さまにお仕えしていた侍女の、ひとり語り形式で全編を語る、ことばの美しさを伝えたい。
全身を目と耳にして、息を飲む客席の緊張は、手に取るように伝わってきたが、不思議に落ち着いていた。
その時、舞台裏で何かが倒れる大きな物音が響いた。シーンと静まり返った場内に、一瞬ヒヤッとしたが、私自身その事で乱れは無く、物語を進める事が出来たのである。後で解ったのだが、後編で使用する予定で準備していた、大道具の金屏風が倒れたのだとか。
万全の準備を整え注意を払っていても、そこは人間の成せる技、完璧と云う二文字は皆無なのだろう。
2日目は、午後1時30分開演予定だったが、この日も小さなアクシデントがあった。
人身事故が発生し、総武線が上下線共にストップしていると云う情報が入った。ほとんどの方が総武線を利用するであろう事を思えば、開演時間の変更は止むを得ないと考え、15分繰り下げての上演となったのである。場内アナウンスで、再三再四お伝えしながら、ご理解戴いた為かトラブルも無く、この日は満員のお客様にお聴き頂く事が出来たのである。
お客様をお見送りしながら、これまで以上に大きな手応えを感じ、2年と云う歳月をかけて、向き合ってきた作品「お吟さま」に、改めて挑戦すると云う事の意義を学んだ。
今日、産ぶ声をあげたばかりのわが子「お吟さま」、手塩にかけて育てあげ、これぞ集大成……と云えるところまで頑張ってみよう。
〝なせば為る成さねば為らぬ何事も成らぬは人のなさぬなりけり〟
何故か、上杉鷹山の格言が頭に浮かんできた。
十三夜は残念ながら曇り空で拝む事は出来なかったが、2日目終演後、打上げを終えて帰る頃には、待宵の月が皓皓と照らし、15日私は75歳の誕生日を迎え、意気軒昂な後期高齢者の仲間入りを果したのである。

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