「将来はサッカー選手になりたい!」そんな夢をどれだけの少年が思い描くのだろうか。人生は紆余曲折あるから、何がどうなるか誰にもわからない。
今回ご紹介したいのは、小学校からサッカー選手になることを夢見ていた少年が、ある日突然人生の苦難に直面し、しかし結果的に夢をかなえた岡晃貴(おかこうき・38歳)の物語である。岡は、私の中学・高校時代の同級生である。当時の印象は、とにかく明るくて気さくなサッカー大好き男。いつもクラスの中心的な存在で、前向き一直線。悩んでいる姿なんて見たことがない。高校時代に、私が少年漫画『ワンピース』にハマるきっかけになったのも、岡が授業中に読んでいたのを借りて読んだのがきっかけだった。本当にごく普通の高校生だった。
岡晃貴は、小学3年生の時にサッカーを始めた。楽しくて、すぐに夢中になった。当時憧れていたのは、三浦知良選手。自分も将来はサッカー選手になりたいと願った。中学校の時はサッカー部の副キャプテンを務め、高校はサッカーの強豪校へ進学した。180名が在籍するサッカー部のAチームに所属し、全国大会出場にあと一歩のところまで迫る。だが、1つ上の先輩にサッカーがすごくうまい先輩がおり、「絶対この人には勝てない」と思ってサッカー選手になりたいという夢はいったん諦めた。
「じゃあ自分は何になりたいんだろう」とぼんやり考えていた時に、テレビドラマ『よい子の味方 新米保育士物語』(櫻井翔主演、日本テレビ)を見て、単純な岡は「幼稚園の先生になりたい!」と思った。保育士や教員の免許が取れる大学に進学し、幼稚園と小学校の教員免許を取得した。大学在学中もサッカー部に入り、週6日の練習をこなしていた。大学卒業後は小学校の教員になり、熱血教師生活を送った。その後、芸能事務所やIT企業に勤め、余暇で仲間を集めてフットサルを主催していた。
転機が訪れたのは、30歳の時だった。いつものようにフットサルをしていると、サッカー初心者にボールを取られた。プロを目指していた自分が、初心者にボールを取られたことに大きなショックを受けたが、最初は病気の可能性は疑わなかった。1年くらい経った時、視覚障害を持つ友人に勧められて病院を受診した。そして、医師から「難病です」と告げられた。
病名は、網膜色素変性症。進行には個人差があるが、視野が徐々に狭くなっていき、やがては失明していく難病なのだという。治療法はまだなく、日本では6000人に1人が発症している。しかし、前向きな性格の岡は、難病と聞いて落ち込むのではなく、むしろ自分がボールを取られた理由が分かってホッとした。サッカー初心者にボールを奪われた方がショックだったのだ。そして、「“せっかく”障害者になったのだから、障害を生涯楽しもう」と考え、視覚障害者のスポーツ「ロービジョンフットサル」を始めることにした。何でもかんでもポジティブに考えるのは、今も昔も変わらない岡の長所だ。
ロービジョンフットサルは、目の見えるゴールキーパー1名と弱視の4名の5人制のフットサルである。全盲の人が競技するブラインドサッカーは、視界を完全に遮断して、耳を研ぎ澄ませて音を頼りにプレーするが、弱視の人がプレーするロービジョンフットサルは、より健常者に近いサッカー技術が求められる。岡はすぐに頭角を現し、持ち前の明るさと熱意でチームを引っ張る存在になっていった。かつてサッカー選手になる夢を諦めた岡が、今やロービジョンフットサルの日本代表のキャプテンになったのである。
日本の障害者スポーツの多くは、日本代表のキャプテンであっても別の仕事をしないと生きていけない。だから岡は、フットサルプレーヤーである一方で、ユーチューブ運営やコンサルなどでバリバリと働く。それまで縁がなかった障害者福祉の世界に触れたことによって、福祉の役に立ちたいとも考えており、ロービジョンフットサルのクラブチームのスポンサーとして出資もしている。
めぐりめぐって夢は叶う、そんな大逆転劇があるから人生は面白いんだろうな。
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【記事の投稿者】
麻生子八咫(あそう こやた)
プロフィール 1985年生まれ。幼少期より父・麻生八咫の活弁の舞 台を見て育つ。 10歳の時に浅草木馬亭にて活弁士としてプロデ ビュー。2003年には第48回文部科学大臣杯全国青 年弁論大会にて最優秀賞である文部科学大臣杯を受 賞。2015年日本弁論連盟理事に就任。2016年麻生 八咫・子八咫の記念切手発売。2020年3月東京大学 大学院総合文化研究科博士課程を満期退学。 著作には、『映画ライブそれが人生』(高木書房、 2009)麻生八咫・子八咫共著がある。劇中活弁、方言活弁、舞台の演出・脚本、司会等、さまざまな舞台 活動を行う。英語公演にも力を入れており、海外で はアメリカ、カナダ、韓国などでの公演などがある。
月刊浅草副編集長