浅草三話<第1回>瀬戸口寅雄(せとぐちとらお)|月刊浅草ウェブ

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【新派の誕生】

川上音二郎が堺市の卯の日座で、川上書生芝居の旗揚げをしたのは、明治二十四年であった。音二郎の目的は、東京公演にあったから、ちくじ東上、六月には浅草鳥越の中村座に乗り込み、初御見栄の公演にこぎつけた。

興行は大成功で、翌二十五年まで続演したが、当時人気のあった伊井容峰は、川上一座を去り、川上を向こうにまわして、大活躍せんと野望にもえ立っていた。 伊井容峰 は、日本橋の写真師北庭筑波の子に生まれたちゃきちゃきの江戸っ子、川上音二郎は、九州博多の生まれだから、江戸っ子容峰がなにくそっと思ったのも無理があるまい。幸い依田学海と云う後援者ができたので、一座の旗揚げに取りかかった。水野好美や千歳米坡らが参加して来たが、容峰の旗揚げは単なる旗揚げではなく、徳川三百年の伝統を打破して、新形式の芝居をすることにあった。それは、今日までの芝居は、男優が女優と一緒に演技することを禁じられ、男優座では女形が登場、女優劇では、男装の麗人が活躍した。 容峰はこれを打破、男女優共演の新派劇を目的として、その許可願を警視庁に提出した。警視庁では、始めての、極めて珍しい許可願だから、賛否両論に分かれて、注目された。

「男女共演しなかったのは、旧幕時代からの慣例に過ぎず、男が女に扮して演劇するのは、外国人のもの笑いであり、時代遅れだ」
「いや、男女俳優間で風紀をみだす怖れあり」
しかし、警視庁を騒がせたこの問題も、時の警視総監園田安賢によって、
「規則中には共演を禁止した明文はないから、共演すると否とは劇場主と俳優に委せ、不問に付すべし」

願書は返却、管下各署に通達された。 容峰はバンザイを叫び、明治二十四年一月、浅草の吾妻座で、男女合同改良演劇清美館を旗揚げ、我が国男女共演の劇団が初めて誕生した。

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