「深見千三郎、阿部昇二、町田金嶺」伝説の芸人から、浅草オペラのスターまで!<第41回>浅草六区芸能伝|月刊浅草ウェブ

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • Pocket
  • LINEで送る

東洋興業会長(浅草フランス座演芸場東洋館)松倉久幸さんの浅草六区芸能伝<第41回>「深見千三郎・阿部昇二・町田金嶺」


前回(第40回)掲載した、昭和37年・熱海つるやホテルでの東洋興業社員・役者・芸人・踊り子総勢120人超(!)の慰安旅行の集合写真は、大変反響を呼びました。確かに、演者らの舞台での姿は多く残され、色々な形で出回っていますが、プライベートな場面での写真は少なく、ましてこれだけの人数が集って大宴会!となると、かなりのレアショットですものね(笑)。旅行当日は小屋がハネてから出発し、現地到着と同時に宴会へなだれ込むのですが、彼らはまた懲りもせず、歌ったり踊ったり、仮装して演じたり…と、二度目の舞台を繰り返すのですから(笑)、いやはや、凄いエネルギーです。出し物をしている時の姿も撮確かカメラに収めていたはずですが…もしまた面白い写真が出てきたら、是非ご紹介しますね。

さて、前回は集合写真の中に、若かりし日の東八郎、坂上二郎、萩本欽一を見つけましたが、さらに詳しく見てみたところ、またまた懐かしい顔ぶれを発見しました。    
もっとも、今回ご紹介する3人は前回の3人のような誰もが知っている国民的スターになったわけではありませんが、むしろこの顔ぶれは、浅草通にはより喜んでいただけるかもしれません(笑)。…さぁ、つぎの写真、それぞれ誰だか分るでしょうか?全て正解出来た方は、相当の浅草大衆芸能マニアです(笑)!

【A】
【B】
【C】

現役時代メディアへの露出は皆無だったものの、今現在の知名度がこの中で一番高いのは、【A】の深見千三郎ではないでしょうか。この連載を通読して下さっている方なら、もちろんご存じですね(笑)。天才的なコメディアンでありながら、自らは生涯浅草に留まり、ビートたけし=世界のキタノを育てて世に出した人物ですが、実はたけしだけでなく、間接的にはうちの全芸人が弟子だと云っても過言ではないくらいに、「浅草の師匠」と一目置かれ、慕われた人でした。
芸人らしく破天荒な反面、ただの一度も舞台に遅れたり穴をあけたりすることなく非常に真面目な気質だった彼には、歩興行という形でフランス座の経営を任せたこともありました。フランス座を退いた後は、意外にも後輩の立ち上げた会社に就職しましたが、そこでも彼らしく無遅刻無欠勤を貫いたそうです。スポットライトを浴び、客の大爆笑を欲しいままにしていた芸人が一転、一般社会で地道に働き通すのは、なかなか難しいことです。それに徹することが出来た千さんはやはり、カッコいい男でしたね。

▲再就職先で皆勤表彰を受ける深見。リーゼントヘアとピカピカに磨き上げられた靴は、コメディアン時代そのまんま!

深見の後を次いでフランス座を任されたのが、【B】の阿部昇二。アベショーの愛称で親しまれ、浅草フランス座の後に出来た新宿フランス座(新宿ミュージックホール)の初代座長として活躍しました。新宿→浅草と、フランス座には65歳で亡くなる半年前まで、長きにわたり在籍していた功労者です。実演舞台では爆発的に面白いのですが、映像向きではなかったのでしょうか、テレビ界へ進出したものの、残念ながら成功したとはいえませんでした。
しかし後進の指導力には長けており、一番の功績といえば、当時安藤ロールという芸名で鳴かず飛ばずだった坂上二郎を開眼させ、萩本欽一とのコント55号へ繋がるきっかけを作ったことでしょう。飛ぶ鳥も落とす勢いで一気にスターダムに駆け上がってからも、義理堅い性格の坂上はいつまでも師匠への恩を忘れず、後々まで阿部をコント55号の冠番組や映画シリーズに起用していたものです。

考えてみれば、欽ちゃんの師匠である東八郎は深見の直弟子ですから、この2人の存在なくしては、コント55号は誕生しなかったともいえますよね。
ほぼ同世代で、戦前戦後の混乱期を逞しく生き抜いた苦労人。自身が中央に出て脚光を浴びることはなかったけれど、それぞれにお茶の間の人気者を育て、晩年は劇場経営に携わり…と、奇妙に共通点の多い、千さんとアベショー。 いかにも浅草臭の漂うこんな芸人達がいた事も、ぜひ皆さんに憶えていて欲しいものです。

さて、コメディアンが2人続きましたが、【C】の人物は、少し毛色が違います。写真の一番端っこで控えめにしているので、一見事務職のおじさん風ですが(笑)、とんでもない!実はこの人、大正から昭和初期にかけて一世を風靡した浅草オペラの花形スター、町田金嶺(きんれい)さんです。


浅草オペラといえば真っ先に名前が挙るのは田谷力三ですが、その田力にも負けず劣らずの人気を誇る大スターだった、金嶺さん。なぜそんな人がわが社の慰安旅行の写真に映っているかといえば(笑)、私の父と縁のあった金嶺さんは戦後、ロック座とフランス座で長いこと支配人を務めてくれたからなのです。
浅草オペラが衰退してから随分経っていても、田力と人気を二分したその端正な顔立ちには、やはり現役時代の面影が見て取れました。そして、とても人柄の良い人でしたから、誰からも親しまれ、よく色んな人が訪ねてきたのを憶えています。〝金嶺さんがいるなら、ちょっとフランス座に寄ってみようか〟、なんてね(笑)。いつまでも変わらず、人気者でしたね。

浅草オペラに関連する貴重な写真が残っていますので、この機会に紹介しておきましょう。金嶺さんだけでなく、錚々たる往年のスターたちが、集っていますよ!

▲昭和29年9月16日~18日に東洋興業の主宰で開催された「帝劇浅草大會」出演者の楽屋。
左より、小島洋々、杉寛、町田金嶺、田谷力三。これだけの顔ぶれが揃うとは…!
▲左より、茶川一郎、町田金嶺、田谷力三、小島洋々。同じく、「帝劇浅草大會」にて。
最盛期の熱気が、甦ったよう!

それにしても、伝説の芸人からテレビの売れっ子、はたまた浅草オペラのスターまでもが一枚の写真におさまり(笑)、楽しそうに笑っている…いかにも浅草らしい構図ではありませんか!浅草六区興行街はまさに、〈人種のるつぼ〉ならぬ、〈笑いのるつぼ〉ですね。昔も、今も…!

※掲載写真の無断使用を固く禁じます。

東洋館〜浅草フランス座劇場〜

歴史あるフランス座(ふらんすざ)の名前でも有名な東洋館。正式名称は「浅草フランス座演芸場東洋館」です。
現在はいろもの(漫才、漫談など)を中心とした演芸場。建物を同じくする姉妹館・浅草演芸ホール(落語中心の寄席)とともに、歴史ある浅草お笑い文化の一角を担う存在と自負しています。「浅草フランス座」以来の伝統を受け継ぎつつ、新しい「お笑いの発信基地」でもある当劇場へのご来場を心よりお待ち申し上げております。
浅草観光の際には是非ご利用ください。


東洋館〜浅草フランス座劇場〜公式ページ