益田喜頓(本名:木村一)は明治42年、北海道函館市生まれ。裕福な家に生まれたものの父が事業に失敗して蒸発したため、貧しい子供時代を過ごしました。寂しさを紛らわすように夢中になったのは、アメリカの喜劇映画。不思議な響きの芸名“ますだきいとん”は、大好きだったバスター・キートンから発想したとか。
高校時代は野球に明け暮れ、卒業後は地元の社会人野球で活躍し、プロへの誘いもありましたが、最終的に断念。しかし、次に就職した企業の所有する劇団を手伝ったことをきっかけに、思わぬ方向転換をすることとなったのですから、人の運命は、わからないものですね(笑)。
就職から1年たらずで劇団が解散となったため、上京を決意。そして向かった先こそが、東京吉本が経営する浅草花月劇場だったのです。
昭和11年、中学の同級生だった芝利英、その兄の坊屋三郎、川田義雄とともに『あきれたぼういず』を結成。あらゆるジャンルの音楽をベースにナンセンスなギャグをちりばめた面白可笑しい替え歌で、一大ブームを築きます。
あきれたぼういずは戦後、益田喜頓、坊屋三郎、山茶花究の3人組となり、奇跡的に焼け残った浅草花月劇場で、再びブレイク。隣にロック座が出来たのは昭和22年ですから、私の知っている喜頓さんは、この時代以降ということになりますね。
当時の周辺の賑わいと言ったら、そりゃ凄いものです。現在、浅草演芸ホールの隣がドン・キホーテになっていますが、かつてはそこが大勝館という巨大な映画館でした。これがひときわ目を惹くお城のような建物で、余談ですが、建設費はあの頃の一般的な劇場の5倍ほどもかかっていたとか。ひとつパチンコ屋を挟んで隣にロック座、浅草花月劇場…という並びです。眼前には瓢箪池が広がり、昼夜を問わずごった返していましたね。
浅草花月劇場は、戦前は他と一線を画すアメリカナイズされたモダンなショーで爆発的な人気を博したそうです。戦後は周囲に寄せてだいぶ路線変更したようですが、それでもやはり、大盛況なことに変わりはありませんでした。
一方、ロック座もまた、オープンと同時に連日満員御礼の盛況ぶり!ほどなく大勝館の地下に開場し、人気劇場となったカジノ座は、うちの成功を目の当たりにして、新設されたという噂です(笑)。
何はともあれ、高校生の頃から家業の仕事を手伝い始めた私の目には、周りの全てが刺激的で、きらきら輝いて見えました。
ロック座と浅草花月劇場は、いずれ劣らぬよきライバルでしたが、関東系と関西系というカラーの違いがありましたので、ちょうど上手い具合に棲み分けが出来ていたと思います。
花月であきれたぼういずが拍手喝采を浴びれば、うちでは伴淳三郎や八波むと志が客席を爆笑の渦に巻き込む。やはり従業員はお互いの小屋の様子が気になりますから、裏通りにある楽屋口からこっそり覗きに行ったりして。私もやりましたけど(笑)、花月では時々入れ替えがあって、関西から色んな芸人さんがやってくるんで、それが楽しみでしたね。他の劇場はみんな、出る人が決まっていたから。
うちと花月をハシゴして笑い比べ、それから大勝館で映画を観て、夜も更けると瓢箪池を囲む屋台で一杯ひっかけ…てな感じで“フルコース”を満喫するお客さんも、結構いたんじゃないでしょうか(笑)。
六区にひしめき合う無数の劇場や娯楽施設は、絶妙なバランスを保ちながら浅草の繁栄を支えていたのです。
あきれたぼういずの解散後、喜頓さんは俳優として活躍の場を映画や舞台に移し、その後の活躍は誰もが知るところです。しかし彼は六区興行街が勢いを失ってからも長いあいだ、浅草田島町に住み続けました。
素顔の喜頓さんはステージで観るまんま、とてもカッコイイ人でした。自宅が近かったこともあり親しくしていたのですが、一番印象に残っているのは、毎朝、違う帽子をかぶって出かけてゆく時の姿です。まるで判を押したようにきっかり同じ時間に出てゆくものだから、私は秘かに喜頓さんを時計代わりにしていたくらいです(笑)。
以前、メトロ通りの曲がり角に『ボンソアール』という有名な老舗レストランがあり、1階は喫茶室になっていたのですが、喜頓さんは365日、欠かさずそこで朝食を摂っていました。メニューも必ず一緒で、コーヒーとトースト。
あの世代には珍しいほど背が高く、スマートで、日本人離れした目鼻立ち。お洒落な紳士にはやはり味噌汁とごはんより、コーヒーとトーストがお似合いです。
老舗の喫茶室でゆっくり新聞を開き、道行く人を眺めながら、一体どんなことを考えていたのでしょうか?…想像すると、なんとも優雅ですね。
半世紀以上もの時を過ごした浅草を引き払い、喜頓さんがご家族と共に生まれ故郷の函館へ帰ったのは、平成2年のこと。引っ越しの前にはわざわざ挨拶に来て下さり、「寂しくなるねぇ…」と長年の想いを語り合ったものです。
帰郷後の連絡は途絶えてしまいましたが、平成5年、大腸癌のため84年の生涯をひっそり閉じたということです。
かつて喜頓さんの住まいがあった場所にはマンションが建ち、残念ながら当時の風情は残っていませんが、お隣の角には小劇場が出来、舞台人の活動に貢献しています。もしも喜頓さんがご存命だったなら、きっと、とても喜んだことでしょうね。幼い頃から喜頓さんを知る『あさくさ劇亭』の遠藤さんにそう伝えると、懐かし気に微笑んでくれました。
戦争を挟んだ暗い時代に明るい歌で日本中を元気づけ、味のある演技でも大いに楽しませてくれた名優・益田喜頓の名前は、浅草寺境内にある〈喜劇人の碑〉と、私たちの心の中に刻み込まれ、今もしっかりと息づいています。
(口述筆記:高橋まい子)
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