東洋興業会長(浅草フランス座演芸場東洋館)松倉久幸さんの浅草六区芸能伝<第30回>「星合林三(ほしあいりんぞう)」「堀和和久(ほりかずひさ)」
「月刊浅草」2020年8月号のなかに、懐かしい名前を見つけました。
「ひょうたん池の釣」と題されたコラム(過去の名文より再掲載)を綴ったその人の名は、星合林三。我が社の宣伝部に所属し、ロック座、フランス座時代の広報活動全般を担ってくれたとても優秀な広告マンで、このあたりの劇場関係者の間では、名の知れた存在でした。
そうそう、文芸部出身の井上ひさしがあまりにも有名になってしまったため、話題性としてはその陰に隠れてしまった感があり残念なのですが、実は宣伝部からもう一人、著名な作家も誕生しています。
うちは劇場という仕事柄、どうしても表に顔の出る芸人たち中心にスポットライトが当たることになりますが、実は舞台裏でも、優れた人々が多く活躍していたのです。
今回はそんな逸材の中から、劇場の影の立て役者・宣伝部出身の二人のエピソードを、ご紹介したいと思います。
まずは、昭和20年代~30年代の劇場の宣伝部員がどんな仕事をしていたのか、ご説明しましょう。
当たり前ですが、当時と現代の広告業務は、仕事内容が大きく異なります。今では分業化されている多種多様な作業を昔は一人で何役もこなさなくてはなりませんでしたから、宣伝部員にはマルチな能力が必要でした。
例えば公演のポスターを作る場合、今ならイラストレーター、書体デザイナー、コピーライター…と、何人かの専門職がチームになって製作する訳ですが、あの頃は基本的に、一つの作品を一人の人間が(アシスタントはいたにせよ)全て手掛けていたのです。もちろんパソコンなどありませんから、レイアウトや色替え一つも、簡単にはゆきません。何パターンも案を描き、ああでもないこうでもない…と、気の遠くなるような作業でした。看板だって、画面上でちゃちゃっと版下を作ってメール送信し、あとは業者に丸投げ…というわけにはゆきません(笑)。10日ごとに変わる演目に合わせてデザインを起こし、全工程手描きで仕上げるので、迅速さと丁寧さの両方が要求されます。
デザイナーであり、絵描きであり、文才も持ち、職人的な要素まで兼ね備えている…そんな逸材、簡単に見つかるものではありません、が…いたんですね、そんな人が!
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