「伴淳三郎」浅草サンバカーニバルの発案者は浅草喜劇出身のあの名優だった!<第13回>浅草六区芸能伝|月刊浅草ウェブ

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伴淳三郎

東洋興業会長(浅草フランス座演芸場東洋館)松倉久幸さんの浅草六区芸能伝<第13回>「伴淳三郎(ばんじゅんざぶろう)」

2018年度より、台東区では「江戸まちたいとう芸楽祭」と銘打った、一連のイベントを開催しています。これは、江戸の昔より現代へ受け継がれてきた多彩な伝統文化・大衆芸能、それらを育んできた歴史ある土地柄を守り、大切に育み、未来へ継承してゆこうというコンセプトのもと、地元の皆さんはもちろん日本全国、はたまた世界各国からのお客さまに、肩ひじ張らずに楽しんでもらおう、という試みです。わたしも顧問として大いに尽力し、また今後の展開をわくわくしながら見守りたいと思っています。

「江戸まちたいとう芸楽祭」はまだ産声を上げたばかりですが、台東区は、古くから街おこしに力を入れ、さまざまなイベントを開催してきました。
その一つに、今や浅草の夏の風物詩となっている「浅草サンバカーニバル」があります。その歴史は意外にも古く、始まりは昭和56年まで遡ります。今から約40年ほど前、この斬新なイベントを発案したのは、実は意外な人物、“バンジュン”の愛称で親しまれた浅草喜劇出身の名優、伴淳三郎だったのです。

今回は、過去から未来へ繋がる街おこし事業の展開にちなみ、「浅草サンバカーニバル」誕生のいきさつと、その発案者である伴淳がロック座で活躍していた頃の愉快なこぼれ話を、お伝えしたいと思います。

かつては多くの劇場や映画館が軒を連ね、通りを行き交う人々が満員電車のごとく通りを埋め尽くす、日本一の繁華街を誇っていた浅草も、昭和30時代に入ると社会の変化に伴い徐々に勢いを失い、昭和40年代、50年代と時代が進むにつれ、その斜陽化は深刻さを増すばかりでした。
そんな現状を憂い、なんとか浅草に往年の輝きを取り戻すきっかけを模索していた当時の台東区長・山内榮一氏に、「サンバで街おこし、というのはどうでしょう?」と進言したのが、伴淳三郎です。
役所では、まだ「サンバとは、何ぞや?」というオジサンたちが大半を占めていた時代です(笑)。サンバがどういう踊りなのか、何をどうしたらよいのか、全くわかりませんでしたが、とにかくあの伴淳さんのいう事なのだからすごいアイディアに違いないだろう、ということで食指が動いた内山区長、さっそく職員数名を連れ、本場ブラジルまでリオのカーニバルを視察に行ったのです。内山さんは芸能や新しい試みに対してとても理解のある人でしたが、それにしても抜群の行動力!いやはや、頭が下がります。
一口に海外視察といっても、そう簡単ではありません。今でこそ南米旅行も気負いのないものとなりましたが、当時はブラジルまで24時間以上もかかったのです。意気揚々と現地へ乗り込んだものの長旅の疲れと時差ボケがたたり体調を崩してしまった内山区長、可哀想なことに肝心のカーニバル見学もかなわず、寝込んでしまったそうです。
しかし実際に本場の臨場感に触れた職員たちの話を聞くにつけ、やはり情熱的なサンバは、お祭りと聞けば血が騒ぐ浅草っ子たちの気質に合うに違いない、との思いを強くし、帰国早々「浅草サンバカーニバル」の実現に向けて、精力的に動き出ました。

一番の難問は、どうやって踊り手を集めるか、です。冷静に考えてみれば、周囲にサンバを踊れる者など一人もいません(笑)。ダンサーなくしてカーニバルが成り立とうはずもなし…どうしたものかと考えあぐねた結果、妙案が浮かびました。群馬県に、日系ブラジル人およびブラジル人が多数在住する大泉町という所があることを知り、支援を要請したのです。大泉町の方々はこの唐突な申し出を快諾し、わざわざこちらまで出向いて、右も左も解らぬ浅草っ子たちに、親切丁寧な指導をしてくれました。
商店連合会にも協力を仰ぎ、資金面についてはアサヒビールの中條高徳氏の大々的なバックアップを頂き…こんな風に多くの人々の温かい協力に支えられ、昭和56年8月、「浅草サンバカーニバル」は開催に漕ぎつけ、今日では来場者数約50万人を数えるビッグイベントへと成長を遂げました。
伴淳の何気ない一言から始まった浅草とサンバとの縁ですが、珍道中に戸惑いながらも(笑)遥々ブラジルまで視察旅行へ行かれた内山区長と職員の方々の苦労が実を結び、本当に良かったと思います。

伴淳がどうしてサンバという発想にたどり着いたのか、今となっては知る由もないのですが、そういえば一つ、とても面白いエピソードを思い出しました。
伴淳がロック座の座長として活躍していた昭和20年代半ば、上野辺りにはいわゆるオカマバーがわりと多くあったのです。あるとき芝居の中でオカマを演ずることになった彼は、研究熱心のあまり、毎日オカマバーに通っては、役作りに励んだそうです。これは想像ですが、オカマバーのステージはきっと出し物もさぞ華やかでしょうから、あるいはこの時、サンバを知ったのかもわかりませんね。
修行の甲斐あって(笑)伴淳は、それは見事に役を演じきったのですが、「男娼の森」というこの芝居の上演時には、彼の晴れ姿を一目観ようじゃないかと駆け付けた上野のオカマさん達で、連日客席が賑やかだったとか!女性のハダカにはてんで興味のない彼ら(いや、彼女ら?)は、ストリップなどそっちのけで、芝居の時だけ野太い声で、熱い歓声を送ってくれたそうですよ(笑)。
いずれにしても、男女問わず人を惹きつける色気と魅力を、伴淳三郎という役者は兼ね備えていたという証なのでしょう。のちに、映画界の大スターとなった所以です。
そんな彼に憧れてロック座の扉を叩く芸人志願の若者も多く、当時のロック座は芸人も踊り子も20名以上の大所帯となり、その盛況ぶりが後にフランス座の開館へと繋がったのですから、そういう意味でも伴淳の浅草喜劇界への貢献度は、とても大きかったと言えましょう。

さて、ロック座以来の伝統を汲み、フランス座から転身した東洋館では、今日も明日を夢見る若者たちが、日々修行に励んでおります。彼らの中から、伴淳はじめ諸先輩たちがそうであったように、自身の活躍とともに、浅草の発展にも力を貸してくれる次世代スターが誕生してくれることを、願って止みません。
そして、始まったばかりの「江戸まちたいとう芸楽祭」が大いに発展して「浅
草サンバカーニバル」のようにこの地に定着し、末永く皆さんに愛されるイベントへと成長してくれることも…!

(口述筆記:高橋まい子)

※掲載写真の無断使用を固く禁じます。

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東洋館〜浅草フランス座劇場〜

歴史あるフランス座(ふらんすざ)の名前でも有名な東洋館。正式名称は「浅草フランス座演芸場東洋館」です。
現在はいろもの(漫才、漫談など)を中心とした演芸場。建物を同じくする姉妹館・浅草演芸ホール(落語中心の寄席)とともに、歴史ある浅草お笑い文化の一角を担う存在と自負しています。「浅草フランス座」以来の伝統を受け継ぎつつ、新しい「お笑いの発信基地」でもある当劇場へのご来場を心よりお待ち申し上げております。
浅草観光の際には是非ご利用ください。


東洋館〜浅草フランス座劇場〜公式ページ