吉原あれこれ<第3回>野一色幹夫(のいしきみきお)|月刊浅草ウェブ

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《われ、十六才の初陣は……。》

—いまの吉原は、まったく『つわものどもの夢のあと』といった感が深い。赤線地帯ならぬトルコ地帯みたいに、トルコ風呂のネオンが明るく、その影に添うごとく旅館に転向したかつての女郎屋が、対象的にほの暗くひっそりと軒をならべている…。先年、名古屋へ旅行したおり、旧中村遊郭を訪ねてみたが、ここもだいたい同じようであった。ただ、吉原ほどトルコ風呂が多くなかったが、いまではもっと増えているかもしれない。

『つわもの―』ではないが、ボクも吉原には『夢のあと』がいっぱいある。とくに、〝筆おろし〟—つまり、童貞のヒモを切ったときの女郎屋が、いまも残っているのを見ると、なつかしいやらテレくさいやら、なんともいえない妙な気持ちがしてくる。—というのが、これがまた、なンとも妙な 〝筆おろし〟 だったからだ。

—われ十六才の初陣はトビの巣文殊山の合戦…というのは大久保彦左衛門お得意のセリフだが、ボクが 童貞のヒモを切った 初陣も、あまり自慢にゃならないが、やはり十六才—「ずいぶんマセたガキだ」と笑うなかれ、一つには浅草という土地に生まれて育ち、加えて十六才の夏に家業が没落して父親は死に、ポンと社会へほうり出された環境のせいで、急速に〝オトナ〟を吸収したためでもある。しかも、ほうり出された場所が鉄工所。

当時、満州から中国へ広がってゆく戦争の影響で、鉄工所は景気がよくなりつつあったので、ボクは見習工として働きながら、官立の商業高校へ通っていた。—が、夜学でおぼえる学問よりも、工場でおぼえる生きた社会学、とくに先輩の工員たちが茶飲みばなしに(ことさらスゴそ語る人間性に関する経験談—つまり、スケベバナシのほうに興味をもち、イボガエルみたいなほっぺたのニキビをつぶしながら、いまだ知らぬ女体の神秘をあれこれと想像し、必ずやスバラシキことにならんと、期待に胸をときめかしていた。

ところが、ついにある夜—ゲンミツにいうと十六才と五か月目の、北風がビュウビュウ吹く十一月のある夜、意を決して吉原へ出かけた。もっとも、ストレートにそこへ行ったわけではない。その日は朝から計画を〝立てて〟いたので、早る心とアソコを押えながら、いろいろと準備のために寄り道をした。
「吉原なンて、シラフで行くところじゃねえと、フラフラになって、いっぺえ引っかけた勢いで…」とか、
「とにかく精力つけとかねえと、フラフラになって、おテントさまが黄色く見える…」
てなことを、親方から、おりにふれて聞かされていたから、あらかじめ栄養分をタップリ貯えておかないと、カラダが保ちそうにもない。おまけに昼間、ハンマーを振って肉体労働しているのだから、なおさら…と、自分で勝手にそう思いこんでしまった。ムリもない。まだ、なにも知らないのだから…。そこでまず、とにかく栄養のありそうなものを、やたらと食うことに決めた。いまやニキビの増殖を気にすることはない。一パツ、女にブチカマセば、ニキビなンか消えてしまうだろう。とにかく食うべきだ。日ごろひかえていたニキビのモト、油ッこいものも食えや食え…と、いじらしくも、涙ぐましくも、アホらしくもあることを一途に考え、浅草の食いもの屋を片っぱしから食い歩いた―。

〈次回へつづく〉

(昭和45年6月号掲載)

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