吉原あれこれ<第1回>野一色幹夫(のいしきみきお)|月刊浅草ウェブ

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「―オジさんたちァ、ウマくやったよなァ…。だって、そうじゃないか。浅草で生まれて育ったンだから、吉原は近いし…サ、安く、手軽に遊べたじゃないか。シャーワセだよ」

若いひとたちによくそういわれるが、吉原をはじめとするもろもろの歓楽堺―赤線地帯は、働く若い庶民のセックス解決には、たしかに「安く、手軽に」役だった。このアンちゃんのいうように、その点はシャーワセだったかも知れない。大久保彦左衛門お得意のセリフではないが、僕の初(うい)陣も十六歳。トビの巣文珠(すもんじゅ)山ならぬ手近かな吉原の、それも大店は高いので、裏通りの名前も覚えていないチッポケな店の安女郎に、二円ぐらいで童貞を捧げちまった。金さえ出せば、たびたびデートしてゴキゲンをとったり、口説く手数もかからなかった。

「チョットオ、寄ってらしてェ…」
てなぐあいに、こっちから口説かなくても、先方で〝口説いて〟くれた。どんなヒデエつらでも、ゼッタイにモテない野郎でも、ここではモテた。―いや、少なくとも、モテた気分にはしてくれた。そうして適令期ともなれば、どこかのおせっかいなババァがヨメさんを世話してくれて、世帯をもつ…。こういう画一的な青春コースは、逆にボクらの不幸でもあった。感情の伴わない〝買ったセックス〟の、あとアジのワルさ、むなしさ…。

〝朝帰り〟の朝食に、千束町の〝魚昇〟という、〝吉原通い〟常席みたいな店で湯ドウフをつついても、あるいは少し遠いが、これも昔からの吉原客に利用されて繁盛した、有名な駒形のドジョウ屋で〝丸なべ〟(丸ドジョウなべ)で飯を食っても、なんとなくウラ悲しい気持ちになった。〝朝帰り〟にショボクレるのは、〝おきまり〟のように二、三パツもやっつけた肉体的疲労だけではなく、心の中を風が吹き抜けてゆくような、やりきれなさがあったからだ。
しかも最大の不幸は、ボクらは大てい、女を口説くのがヘタ、ということ。なぜなら、こういう「安く、手軽な」場所があったために、女を口説く必要がなかったからである。

—「その点、いいよなァ、キミたち若いもンは…。少なくとも感情の伴ったセックスだろうし…。」
ボクとそのアンちゃんは、赤線の灯が消えてから、おそらく東京で一番静かな、と思われる旅館街となった吉原を歩きながら、
「―それに、タダときている。売春はイケないっていうけど〝タダ春〟ならいいンだもンな。キミたちこそシャーワセじゃないか」
すると、このアンちゃんはいった。「それがウマくないんだよ、オジさん。たった一パツやったら、ムリに結婚させられちゃったり…ってケースが、やたらに多いンだよ。オレの友だちなンか、アワレだったな。だってサ、子供を二人も連れて押しかけてこられちゃってサ。可哀そうに、まだ二十三だってのに、三人の子持ちでフウフウいってらァ…。」
幸には不幸が伴い、自由には不自由が伴う…なるほど、〝タダほど高いものはない〟―か。

赤線の灯は消えて久しいが、昔のままの店がまえ、家なみが残っているので、いまでもヒョッコリ、「おニイさん、寄ってらっっしゃいヨウ」と、女の声がかかりそうな気がするのは、吉原に青春を捧げたボクらの、愛着と郷愁があるからだろうか。

考えてみるとボクは、親父の代から吉原とは切っても切れない縁があった。関東大震災の前後、ボクの家は旧吉原土手でかなり大きな家具屋を営んでいた。場所がら、お得意さんの多くは吉原の女郎屋。そこでは、小さく仕切った小部屋を〝割り部屋〟、家具調度などを一そろい飾りつけた〝家庭的ムード〟の部屋を〝本部屋〟といい、そのために家具の需要がかなりあった。そういう店がお得意さんでは、当然のことのように、父はあちこちの店に、しかも〝お職(しょく)〟—つまりトップクラスのお女郎さんと〝馴染み〟になり、家業は女房と雇い人まかせで何日も〝流連(いつづけ)〟して、家に寄りつかない。

困り果てた母は、(子供の顔を見せれば、里心がつくだろう)と、あまり粋ではない一計を案じ、ある朝、当時五歳のボクの手をひいて、父の泊まっている店へ、寝込みを急襲した。父はまだ寝ていて、出てこない。〝馴染み〟の〝あいかた(敵娼)〟が対応に出たが、実に礼儀正しく、いんぎんな態度で、母を下にも置かずにもてなし、借金で縛られている乏しい小遣いの中から、オモチャや駄菓子などをボクに買ってくれたりした。母は、振り上げたコブシのやり場に困ったような、あっけにとられた気持ちで、その女郎に感服し、逆に小遣いを与えて、すごすごと引き揚げてきた…。その後、父はテレくさそうに帰宅したが、女はボクらの来たことをなにも話さず、さりげなく帰宅をすすめたという。

昔の吉原には、こういう美しい女ごころの触れ合いもあり、女郎でも人間的にリッパな女性がいたものだ。—吉原を歩くと、いまだにボクは、頭をなぜてくれたそのお女郎さんの、手のひらの感触ーその〝ぬくもり〟がよみがえってくるのである。—

〈次回へつづく〉

(昭和45年4月号掲載)

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